石川功一略歴 軽井沢草花館年譜

 

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1937年(昭和12年)3月、三重県伊賀地方の片田舎・青山町(旧名賀郡)で開業医の次男(7人兄弟)として生まれる。中学生時代植物採集に凝り、三重県出身の植物学者、前川文夫先生の植物観察会に最年少年参加したこともある。観察会のあった青山高原には、その頃から高校時代にかけよく出掛け、登山道、間道などつぶさに憶えた。軽井沢のスケッチで山野を巡り、草木に染まった日々が重なる。
20才の時、大志をいだき東京へ出奔、漫画家となる。同期には赤塚不二夫や園山俊二等そうそうたる人達がいた。20代終盤になると画家への道を目指し、デッサンに明け暮れるようになる。30才の頃より描きだしたドローイング「人間戯画」が画商に認められ、援助を受けることになる。以降人物(美人)画を中心に画家としての活動を続けた。
44才の時(1981)、個展のため軽井沢を訪れて以来、草花画が本来目指すべき道と悟り草花スケッチと草花油彩画に新しい境地を見いだす。「草花の永遠の命を残したい」との思いをテーマに、水彩スケッチは植物自生地まで足を運び、植物を採取せずに、屋外で描くことにこだわり続けた。春から秋にかけて石川のアトリエは軽井沢の山野全域に及んだ。油彩画はそれらのスケッチをもとに制作。人物画で培ってきた画法を発展させ、淡く奥深い背景を作ることで、日本画のような独特の世界で表現した。
軽井沢で950種近くに及ぶ自生植物のスケッチ3,000余枚と百数十点の草花油彩画作品を残し、2007年7月永眠(満70歳)。
(2018.3.11修正)

 2004年8月 軽井沢のオミナエシの咲く草原を散策する石川功一